2011年10月23日日曜日

戦前までの日本語教育の流れ

キリシタン
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ.ザビエルが来日を最初として、たくさん宣教師がやってきた。
1579年来日バリニヤーノが教育方法を改革、セミナリオ、ノビシアド、コレジオという教育機関を確立した。1590年、活版印刷機を持ち込んだ。『平家物語』『イソップ物語』『金句集』『羅葡日辞書』『落葉集』などを作られた。
1603-04年『日葡辞書』、04-08年『日本大文典』が刊行され、この時代の音声を知るため重要な資料となっている。
1641年、幕府の鎖国政策が始まって、宣教師の時代が完全に幕を閉じた。
ロシアの日本語学校
1696年、大阪商人がロシアに漂着、教師として日本語学校を設立した
1816年、教師が確保できないと財政難の原因で、閉鎖された。
欧米での日本語教育
1815年、ホフマンがオランダの大学で日本語授業を行い、『日本文典』を版行した。
ヘボンが『和英語林集成』で用いた英語式ローマ字表記法を「ヘボン式』と言い、現在も広く使われている。
植民地での日本語教育
台湾
1895年台湾にわたっていた伊沢修二が芝山厳学堂を開設して、日本語を教え始めた。
1922年から、台湾の教育は進学を目指し、日本国内の日本語教科書に近づき、日本の「自由教育」に影響されて、教育が一本化になった。
1930年代、台湾の日本語教育は皇民化教育へ進んだ。社会で日本語が使用限りということもあった。
1945年、日本敗戦により台湾の植民日本語教育が終わりを迎えた。
朝鮮
1891年、朝鮮政府は日語学堂を設立した。
1910年、韓国は日本に植民地化され、日本語を国語と呼ばせられていた。「忠良ナル」国民の養成を目的として、国語と修身は必修された。
満州
1932年、日本は中国東北三省で溥儀を皇帝として満州国を建国させた。日本語が初等中等教育で必修され、「速成法」という教授法が採用されていた。
南洋諸島
第一世界大戦で日本は南洋諸島を占領した。
1920年以後南洋諸島で日本語教育を義務教育として行われた。
1986-94年諸島は米国の自治領となっていた。

山口喜一郎の直接法は、幼児が第一言語を習得する過程に習った教授法で、教師が動作を実演して理解させ、学習者はその動作をまねしながら目標言語の音声を学ぶというものである。

大出正篤が考案する速成法は、教科書を「訳注法」として、母語の対訳、語注、振り仮名をつけてこの予習は家で行わせ、学校の授業では会話の練習を重視して口頭能力の養成日に力を入れるというやり方である。

訳読主義は、中世ヨーロッパでラテン語を教えるための外国語教授法で、原典を正確に理解するための読み書き能力が重要であり、会話能力は軽視されていた

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